髙田明 〜業界を問わずに活躍するテレビショッピングのカリスマ〜

インターネット全盛の時代にあって、テレビ・ラジオショッピングから数多くのヒット商品を生み出してきた企業「ジャパネットたかた」。その創業者である髙田明氏(以下、髙田氏)は、自社通販番組に長年MCとして出演し、独特の語り口や懐っこい人柄でお茶の間の心を掴んできました。

いろいろな書籍も出版しています!

しかし、2015年に業績好調の中で突然引退。その後は、JリーグのV・ファーレン長崎の代表取締役社長を務めるなど他の世界で活躍し、現在は株式会社A and Liveの代表として活動しています。『伝えることから始めよう』(東洋経済新報社)、『90秒にかけた男』(日本経済新聞出版社)など、著書も多数発表。

英語漬けの学生時代

髙田氏は1948年、長崎県平戸市にあるカメラ店の次男(4人兄弟)として生まれます。学生時代は「いつか英語が話せるようになりたい」と思っており、小学校高学年の頃から英単語の暗記に熱中していたそうです。

大学中に起業のキッカケを掴む

高校卒業後は明確な目標を持っていたわけではなく、単に「みんなが都会に出るなら自分も」という理由で大阪経済大学へ進学。ただ、英語研究会に入ることだけは決めており、単位を落としたら留年という危機に陥るほど、授業そっちのけで英語漬けの日々を送っていました。

そんな大学3年次、大阪万博が開催され、髙田氏も何度も会場に足を運びました。ですが、その目的はパビリオンの展示ではなく、来場していた外国の人たちに話しかけて交流すること。こうした根っから英語漬けの学生生活を送っていた経験が、後に通販で電子辞書を売るきっかけとなったそうです。

機械メーカーで海外赴任も起業をめざし退社。だがあえなく挫折

将来、語学力を生かした仕事に就きたいと考えていた髙田氏は、大学を卒業後、京都府内の産業機械メーカー・阪村機械製作所へ入社します。その希望が叶い、入社後は貿易部の社員として2年間、西ドイツのデュッセルドルフへ赴任。ヨーロッパ中の国々を飛び回る社会人生活を送ります。髙田氏は当時のことを「英語ひとつ身につけただけで、得難い体験ができた」「何かに熱中することは、必ず後の人生を豊かにしてくれる」と振り返っています。

その後、大学時代の友人に翻訳会社を立ち上げないかと誘われ、同社を3年で退社。しかし会社は間もなく立ち行かなくなり、あえなく挫折。髙田氏は故郷の平戸に戻り、実家のカメラ店を手伝うことになります。

 「できることはなんでもやる」 ソニーの特約店として独立し成功

家業で観光写真業に取り組んでいた中、髙田氏は長崎県松浦市にあった営業所を任されることになります。

試行錯誤して目標達成

赴任後、当初は月55万円だった売上を「これではダメだ」と感じた髙田氏は、月間の目標を300万円と決め、現像フィルムを集めるための営業やカメラの販路拡大に尽力。見事、目標を達成すると、その後は佐世保市にも進出。最終的に年商2億5000万円まで売上を拡大するなど成功を収めました。

株式会社たかたの設立

その後、1986年に家業から独立して「株式会社たかた」を設立。フィルムの即日現像とカメラの販売で業績を拡大しつつ、当時一般家庭に普及しつつあったビデオカメラの取り扱いも開始。九州で3番目のソニーの特約店として業績を伸ばしていきました。パスポートサイズのハンディカムが発売されたときは、月に100台を販売したこともあったそうです。

「ジャパネットたかた」の誕生

独立後、ブームの到来に合わせてパイオニアのカラオケセットを販売していた頃、知人を通じて長崎放送ラジオの番組内で放送する通信販売コーナーへの出演を依頼されます。これを受けた髙田氏は、番組内でカラオケセットを売り込み、数ヵ月分の売上を1日で達成。この体験を経て、通信販売への進出を決意します。

ラジオショッピング番組

髙田氏は1990年から本格的にラジオショッピング番組を開始。当時は年に数回程度だった放送枠を、全国のラジオ局に営業をかけて少しずつ拡大。約1年を費やし、北海道から沖縄まで全国のラジオ局に番組ネットワークを構築します。

1994年からはテレビショッピングにも進出。まずテレビ長崎にて放送を開始し、併せて1995年に社名を改称。「日本をネットする」という意味が込められた「ジャパネットたかた」が誕生します。

拘りの自社制作

同社は番組の自社制作に徹底的にこだわったことで知られます。もともとは主要都市の制作会社に依頼していましたが、制作費と時間がかかること、制作意図がうまく伝わらないことなどから自社で制作する体勢に切り替えたそうです。

これにより、コスト削減と制作の高速化が実現。1997年には年間400本の番組を自社で制作できるようになりました。

突然の社長退任。そしてV・ファーレン長崎へ

そうして順調に成長していた「ジャパネットたかた」ですが、2010年に過去最高の売上高を記録した後は、テレビの販売不振などにより2年連続で売上が減少。2013年を「覚悟の年」とし、過去最高益を出せなければ社長退任を公言しました。結果、社長だけでなく社員も発奮して目標を達成。息を吹き返します。

その後、2015年に代表取締役社長を長男の髙田旭人氏に引き継いで、髙田氏は同社を去ります。その裏には長男が若手社員たちと進めてきた新施策、今では同社の目玉企画となった「チャレンジデー」がありました。

退任のキッカケは、、、?

当時、髙田氏はリスクが高いと反対していましたが、赤字覚悟で任せてみたらこれが大成功。自分の経営感覚に確信が持てなくなり、一方で自分の反対にもめげず何度も提案してきた社員たちのたくましい姿に引き際を悟り、退任を決意したそうです。

その後、髙田氏は1年かけて番組制作やMCとしてのハウツーを社員へ引き継ぎ、2016年1月に同社を離れました。

V・ファーレン長崎の社長に就任

ジャパネットたかたを退社後、髙田氏はJリーグのクラブチーム、V・ファーレン長崎の社長に就任。2017年のことで、ジャパネットたかたの持株会社である「ジャパネットホールディングス」が、同チームを完全子会社化した流れでした。髙田氏は債務超過や選手への給与未払いなど、同クラブの経営環境改善に注力。同時にPR活動も積極的に推進。そして同年11月、同クラブは最終戦に勝利し、クラブ史上初のJ1昇格を決めました。

常に事業の先の「お客様」を忘れない

このように多方面で活躍してきた髙田氏は、売上が1000億を越えて周囲から「すごい」と言われても、その中身が大事だと語っています。

例えば、企業は成長していくにつれ、同時に果たすべき「社会的責任」も大きくなっていきます。ジャパネットたかたは2004年、顧客情報の漏えい事件を起こしてしまいましたが、このとき髙田氏は誠意ある謝罪と報告を消費者へ丁寧に繰り返してきました。結果、会社は持ち直し、顧客も再び戻ってきました。髙田氏が「社会的責任」がどれほど大切にしていたかがよくわかるエピソードです。

「仕事だけでなく、人生でも他者との比較だけで生きてはいけない」

髙田氏の起業を目指す人へのメッセージ

その言葉には、サービスを届けるお客様のことを第一に考えなければいけない、そんな強い信念が感じられます

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